□ ざきのつぶやき □





 2003/01/24 (Fri)
□ リニュ
新年も明けて、気分を入れ替えると言う意味で、つぶやきを新しくしようかどうか検討中。つぶやきの方向性を少し変えてみようかとも思ってもいます。
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 2003/01/15 (Wed)
□ ヒネくれもん
僕は自分のことをヒネくれた人間だと思っていました。

何となく何ですけれども、「自分はヒネくれてる人間だ」と思うのと「自分はヒネくれてない人間だ」と思うのを比べた時、「自分はヒネくれてる人間だ」と思ったほうが気持ちが楽だったような気がします。

自分で自分をヒネくれた人間だと思うことは、もしかすると、単に楽をしたがっていただけだったんじゃないかと、最近は思います。
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 2003/01/13 (Mon)
□ 親の心情
もし、今の自分が今の自我をもったままで再び子供の頃からやり直して現在に至ったら、今よりも、もう少し素敵な人生だと思う。というか、「ガキじゃないんだから、もっとうまくやれるに決まってんだろ。」という根拠のない自信はある。

そういうことを思える今の自分は嫌いじゃない。よく失敗もしたけれど、少なくともそう思えるところまで成長できた今の自分の存在は間違いではないと思う。

人は子供が生まれると、その子に昔の自分の姿を重ね合わせるのだと思う。多分、子供に「こうして欲しい」と思うことは、自分の経験や知識から判断して「こうするべき」だと思っていることなんだと思う。

例えば、「子供が塾に行って欲しい」と思う親は、「子供は塾に行くべきだ」と思っているからだと思う。まあ、当たり前か…。

それが親としての愛情から発するものなのか、義務から発するものなのかは、よく分かりませんが、良かれと思ってやっていることは間違いないと思います。

良かれと思ってやったけど、その反面で、それによって子供の自我が制限されるという面もあると思います。家庭内で自我を抑えられた子供は、一体どこで自我を発散しているのか?電車の中で、塾や習い事の帰りの子供たちをみて、ふと疑問に思ったりしました。

自我のない人間には感性はないと思う。だから、何となく怖い。


・あとがき
『例えば』の前くらいまで「親の気持ちってこんな感じかな?」と世間一般的な親の心情を想像しながら書いてたんですけど、文章の帰結は変な方向にいってしまいました。その上、結局、何が言いたかったのか自分でもよく分からないっす。でも、書いてて何となく有意義だと思ったから、多分、自分にとっては何らかの意味があるんだと思います。とはいえ、もう少しまとまった文章が書けるようにならんといけないですね。
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 2003/01/10 (Fri)
□ 読書
昔から本を読むのは好きでした。でも、国語の授業は嫌いでした。

読書好きで国語嫌いというのは、矛盾しているような気もしますけど、そんなこともありません。読書は娯楽の1つであるけれども、国語の授業というのは、娯楽ではないからです。

塾の国語でも、学校の国語でも、自分が普段読む機会のないような文章に触れられるという点で多少は興味を惹かれました。でも、その文章に対する意見や解釈を「青少年の視点から」みたいな形でやらされるのが嫌でした。授業中に「正しい」と習った意見は誰かの意見であり、それは僕の意見と違ってたからです。

また、実際はつまんねえ文章だと思ったとしても、あたかも感銘を受けたようにしなきゃいけないっていうのも嫌でした。人間は自分の関心がない事象に対して、感銘を受けるということはありえません。当然のことですけど、関心がなければ意見なんかもてません。どうでもいいやと思うだけです。どうでもいいやと思っているのに意見を書かなければならないから、その意見を生み出す過程は作業的なものになり、出来上がった意見は何の変哲も面白味もない意見になります。だから、国語の授業はつまらないと思ったし、嫌いでした。

解釈や意見なんてものは十人十色なのに、どうして画一的に書かせるんだろう?きっと、好き勝手に書かせたら試験問題にならないから、便宜上「こうやって解釈するのが正しい」というのを基準を作ったんだろうなあ…。塾の授業を受けながら、そんな風に考えてました。

今でもその考え方は変わってませんけど、ちょっと視点を変えて考えたりもします。「正しい意見」を導き出せるようになるということは、自分の感性を殺すことにも繋がりますが、それはそれで大切なことなんだと思います。大人になるにつれて、公的な場所で自分の感性をストレートに表現できなくなりますから、きっとそういうことにも慣れておかないといけないんだろうなあ…。

人間って効率的に生きようとすればするほど感性が死んでいきます。読書に限ったことではありませんが、娯楽というのは、感性を殺さないためのストッパーなのだと思います。感性を失うということは、自我を失うということと同義ですから、何とか自我を守ろうとしてるんだと思います。

僕が思うに「自我」と「生存本能」っていうのは根本的には一致しないものだと思います。どちらが大事かということは決められない。要は、そういう矛盾やジレンマを心の中に抱えながら、自分なりにバランス感覚を養って前向きにもっていけるかどうかだと思う…と、「国語嫌い」から段々、話が飛躍してきて分かりにくくなってきてるんで、この辺でやめておきます。自分の頭の中では話は繋がってるんですけど、まあ、きちんと整理して文章にすると長くなるし、わざわざ長々と書くほどの事でもないですから…。
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 2003/01/06 (Mon)
□ 子供
いつの頃からか、段々と外で遊んでいる子を見かけなくなったように思います。もしかすると、僕の住んでいる地域だけのことなのかもしれませんが…。

サッカーとか野球とかの地元のクラブに所属して、校庭や運動場で、屋外スポーツをしている子は、時々、見かけます。でも、僕の感覚として、スポーツをすることを「外で遊ぶ」とは言うのは少し違和感があります。僕らの頃のように、その辺の道路とか公園で鬼ごっこやドロケイをやったりしているのを「外で遊ぶ」というのだと思います。まあ、僕の中の定義はどうでもいいんですけど、とにかく、そういう遊びをする子を、全く見かけなくなりました。

この間ニュースで、子供の運動能力が年々低下してきていると、言っているのを聞いて、案外、普段外で遊ぶ子供が減ってきていることも関係しているんじゃないかと思いました。

僕らが子供の頃は、学校帰りにタカオニとかをやって結構、遊びながら帰ってましたし、急いで家に帰って一度荷物を置いてから、遊びに行くということも、しばしばありました。多分、そうやって遊んでいる中で、運動能力などがちょっとずつ備わっていったんだと思います。

最近の子供は塾があるからと言って、まっすぐ家に帰るみたいです。中には学校から直接、塾に行く子もいます。学校の帰り道の行き先が、塾というのも何だかちょっぴり寂しい気もしますけど、まあ、致し方ないのでしょう。

とにかく、今に始まったことではないですけど、子供の遊び方は変わってきていますね。多分、ドロケイとかポコペンとか、そのうち誰も知らなくなるんだろうな…。この間、「ドロケイって知ってる?」と聞いたら、「学校の体育の時間に一度やったことがある。」と答える子がいてビックリしました。そのうちドロケイは学校で教わるスポーツになるのかなあ…。

子供の遊べる環境がなくなってきていることと、学級崩壊というのは結構、関係がありそうな気がします。まあ、一概には言えませんけどね。
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 2003/01/01 (Wed)
□ 年賀状
あけましておめでとうございます。

昨年、このページを訪れてくれた皆様、ありがとうございます。

このつぶやきを読んでいてくれていた皆様、重ねて御礼申し上げます。

今年も、よろしくお願いします。
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 2002/12/28 (Sat)
□ 北朝鮮
この間、ニュースで北朝鮮について色々やっていて、その時に自分が思ったことをチラホラと、メモしておこうかなと。

まず、どっから書けばいいのかなあ…。ちょっと堅苦しくなるけど、「国家」というものは何のために存在しているのかと言うことからかなあ…。

確か、僕が学校で習ったときは「国家」というものは、国民の生命や財産や尊厳を守るために存在するのだと教えられたように思います。

でも、北朝鮮という国は、ちょっと違うみたいでして、あの国には国民の生命や財産や尊厳よりも優先されるべきものがあるようです。

それが何かと言えば、金正日の存在です。

国民の生命や財産や尊厳より大事って事を、もうちょっと具体的に言うと、国民の99%の命と金正日の命のどちらが大切かと言えば、金正日の命ということですね。まあ、ちょっと大げさな例えですけど、的外れではないと思います。

北朝鮮の国民の中に、実質として、どのくらいの人が、自分の命よりも金正日の命が大事だと思っているかは知りませんけど、北朝鮮という国家の建て前としては、金正日の命のほうが大事だと思うのが正しいんだと思います。

要は、北朝鮮という国家とその国民は、建て前として、金正日という個人を支えるために存在しているのだと思います。

今の北朝鮮というのは、何となく戦前の日本に似てるような気がします。戦前の日本も、天皇という個人を支えるために国家と国民が存在していました。

『お国のため』や『陛下のため』という建て前で、多くの日本人が死にました。その感覚は現代の日本人からすれば不気味としか言いようがありません。

まあ、それはあくまで建て前であって、実質的に当時の日本人の国民のどのくらいが心の底からそう思っていたか知りません。でも、結局、国家としては、建て前で走らざるをえなかったということは間違いありません。

「建て前」というと言葉が軽いですけど、言葉を変えて言うなら「秩序」かなあ…。法律とか憲法に似たデジタルなヤツです。それを存続できなければ、国家はその存在価値を失います。

もしも、天皇が「戦争やめよう。」と建て前を崩さなかったら、戦前の日本も建て前のまま走り続けたと思います。

終戦時、天皇が『人間宣言』をしたことの重大さが、現代人の感覚だと、非常に分かりにくいですね。あれは、宗教的な意味でも重要でしたが、むしろ、それよりも重要なのは、立憲君主国家から民主国家に日本が変わるという宣言であったということが…って、まあ、あんまり、日本史マニアみたいな話を書くとアレですんで、ここら辺でやめて話を戻します。

まあ、北朝鮮はどこまで走り続けるつもりなのかなあ…もしかすると、第二次朝鮮戦争みたいな事態になるまで走り続けるのかなあ…とニュースをみながら思ってました。
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 2002/12/24 (Tue)
□ クリスマス
教会の前を通りかかったときに思い出したんですけど、そういえば、クリスマスってキリストが生まれた日でしたね。クリスマスのもともとの意味って、キリストの誕生日パーティーみたいなもんなのかな…。そう考えると、サンタクロースは何者なのか良く分かりませんが…。

ま、何であろうと、クリスマスはお祭りの日には違いないですよね。

特別な奇跡が起きる日でもないのですけど、みんなが少しでも幸せな気分に浸れますように、と願ってみたりして…。
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 2002/12/19 (Thu)
□ 何となく『募金から』の続き
時々、現在の毎日より、昔の毎日のほうが楽しかったように思うことがある。

でも、もし今の僕がタイムマシーンに乗って、過去に戻って、昔の僕に会って、「毎日楽しい?」って聞いたら、「楽しいことばっかりでもない。」とか答えるんだろうな…、多分、昔の僕には、昔の僕なりの不満や悩みがあったから…。

自分の行動に対して、何らかの義務や責任が存在していることを感じると、頑張らなきゃと思う反面、そういう現実を少し煩わしく思うこともある。

煩わしいとは思っても、社会の仕組みとして、個人に対して、その立場に応じた義務や責任が課せられるのは、極めて当然な社会の仕組みだということは分かってます。そして、社会に属して生きている以上は、そんなことあえて口にすることでもないと言うことも分かってます。

社会や現実というものが、色々と煩わしい性質を持ち合わせていることは当たり前なんだけど、ふとしたきっかけで、それを自分の身にしみるように実感させられると、大したことじゃないと思いつつも、何故か、それを少し寂しく思うことがある。僕も少しは大人になったということなのかな…。

ま、でもきっと、そのうち慣れてしまえば、そういうもんだと割り切れるようになるんだろうな…。いいこと何だか悪いこと何だかよく分からないけど、何か失くしていっているような気がするような、そうでもないような…。
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 2002/12/15 (Sun)
□ タイム
1年は12ヶ月、1週間は7日、1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒。

もし、時の単位がなかったら、僕は自分が何歳であるのか分からないですし、まあ、それよりも以前に歳という概念自体が存在しないでしょう。

地球は公転と自転をしているので、おのずから、季節と昼夜が存在します。季節と昼夜は、最も根本的に人間に『時間』の流れを意識させるものです。もし、地球がそれらを全く感じさせない惑星であれば、人は『時間』という概念を作り出せなかったに違いないでしょう。

時計が手軽に生産されるようになり、一部の上層の階級以外の人々、一般の庶民にも手に入るようになったとき、社会が大きく変質したという話を聞いたことがあります。その理由は、個人の生活が『時間』に縛られるようになったからだそうです。

「駅前に明日の朝8時30分に集合。」

こんなセリフは日常生活の中では違和感なく使われますが、もし、時計がなければ、こんな約束はできません。僕らは生まれたときから文明の中にいますから、特に意識しないことではありますけど、普段の僕らの日常生活というのは、遠い昔から作られてきた人間の知恵を土台としているのです。もし、その土台をなくしてしまえば、人間は人間でなくなってしまうのでしょう。

以前にも書いたように思いますけど、自然の中で人間が道具を使って切り開いた人間のための居住空間を文明と呼ぶのだと思います。

『自然』の反対の意味を表す語は、辞書的な解釈は知りませんけど、僕は『文明』だと思います。本来の姿である常態の地球を『自然』と呼ぶのならば、人間の作る文明というものは異常な、『不自然』な存在であるのでしょう。文明の中で暮らしているから、僕らの中に時間という概念は当たり前に存在していますが、非常に不自然な概念だと思います。

「日曜日の朝だっていうのに、何でこんなに早起きするの?」

『日曜日』という時を表す語も、人間の知恵です。どういう理屈で考え出されたルールかは知りませんけど、とにかく、6日働いたら1日休む。その休みの日を日曜日と呼ぶルールを誰かが作った。このルールを知らない人間からすれば、上のセリフは不可解でしかないでしょう。本来、自然の中に日曜日など存在しません。日曜日は人間の知恵が生んだ文明の中にしか存在しないのです。

時間と言う概念は、現代の文明を支える大きな柱の1つであります。現代の文明というのは昔から人間が進歩させてきた知恵の集積であるのですが、知恵のある人間が愉快な人間であるとは限らないのと同様に、進歩した文明であることが愉快な文明であるとは限らないようです。

時々、時間という概念が存在することを不愉快に思うことがあります。「どうしても明日までに結論や結果を出さなきゃいけない。」そんな時、時間の存在が不愉快になったりします。でも、時間という存在がなければ、あるいは、時間が無限にあれば、曖昧なままにして終わりにしてしまうのかもしれません。

もしかしたら、もともと、時間という概念は、人間の怠惰を抑止するために考え出された人間の知恵なのかもしれません。少なくとも現代においては、人々を効率的に行動させるための役割を担っていることは否めません。

産業革命以降、人間の文明が急速に進歩したのは、単に科学技術の向上だけではなく、人々が『時間』という概念を持ち、タイムスケジュールに縛られ、怠惰の少ない効率的な仕事をするようになったということも大きな要因であると思います。これが人類の進化なのかと思うと少し不思議な気もします。

とどのつまり、進化というのは効率化ということなのでしょうか?
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for LITTLE DIARY Ver.1.00

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